鹿鳴館のワイセツ論その7

 性器の露出が誰に不快感を与えるのか不明なのだが、それがあると仮定して、さて、この時代に、何を規制すべきなのだろうか。ここが筆者には疑問なのだ。

 情報は個人が受け取るものになっている。最近はテレビでさえ家族単位ではなく個人のものだ。たとえば、映画は集団で観るかもしれないが、それは映画館に入った人が集団でいるのに過ぎない。街頭テレビの時代ではないのだ。

 不快な人は不快だと思われる情報を拒否すればいいのである。

 それなら、規制すべきは何をではなく何処でなのではないだろうか。

 つまり、何を見せたかではなく、何処で見せたか、公然とは何か、こちらのほうで規制すべきなのだ、と、筆者は思うわけである。

 今、この時点でも、絵画と写真の区別は難しくなっている。写真には被害者がいるからダメで、絵画には被害者がいないからいい、と、そうした規制をしていたのでは、写真を絵画だと言い張る人も出て来て意味が分からなくなる。

 それなら、何処で、ここをはっきりさせて行けばいいのではないだろうか。たとえば、性器の露出のある本や雑誌は定価が五千円以上でなければいけないとか。それが映像なら五万円以上とか。未成年を対象にするのではなく、本に五千円も払う覚悟があるなら、もう、年齢に関係なく買わせればいいのではないだろうか。そこまでの覚悟のある未成年なら、どうせ、性器の写真も絵画も手に入れるはずなのだから。

 絵画だからいい、写真だからダメと、これは無理なのだ。そんなものに差異など見出せない時代になっているのである。

 さて、鹿鳴館の、と、タイトルしているのに、ずいぶんと一般論が長くなった。

 鹿鳴館のワイセツ規定について書いて行こう。